城でうなる

大いなる野望と騙し合いの忠義が交錯し、多くの流された血により築き上げた権力の象徴。

生まれ育った四国松山には、街の中心に城がそびえ立っている。毎日目にしていた風景の一部に松山城の天守があった。そんな環境で育つと、お城に天守があるのはあたりまえ、と思っていた。そして今住んでいる兵庫県は、世界遺産姫路城をはじめ、城の数が日本一の都道府県だそう。かつての日本には、柵や堀だけの砦のようなものや、石垣や土塁に囲まれた寺社も含むと、25,000~50,000ヶ所もの城があった。城は普段目にする当たり前の存在。でも・・・

あぁ、城に惹かれる今日この頃。

鎌倉時代、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時代には、武士は館を拠点として活動をしていた。

室町時代初頭の南北朝時代には、武士は山の地形を利用した山城を築き、山の麓に住居を置くようになる。

室町時代後期、「応仁の乱」以降、戦国時代へと突入すると、戦により奪った領地を支配するため、平地を一望できる平山城が多く築かれた。

戦国時代末期、天正5年(1576年)に壮麗で豪華な天守を備えた最初の城である安土城が織田信長により築城した。戦国時代末期から安土桃山時代そして江戸時代初頭の50年ほどの間に、現代人がイメージするような石垣や城門、櫓、堀を備え天守がある城が約3,000城も築城された。

江戸時代初頭、「大坂夏の陣」の後、元和元年(1615年)六月に江戸幕府は一国一城令を発令する。同じく、元和元年(1615年)七月に江戸幕府は武家諸法度を公布する。これにより新たな築城は禁止され、修理の際も幕府へ届け出なければならなくなった。これらにより170城に減少する。

明治時代となり、明治政府は明治6年(1873年)に廃城令を発令する。城は陸軍省の軍用財産となったり、大蔵省が普通財産として処分した。これにより天守が残された城は21城に減少する。

明治10年(1877年)西南戦争により熊本城の天守が消失する。これにより天守が残された城は20城に減少する。

昭和の時代になると、日中戦争から太平洋戦争へと拡大し、第二次世界大戦と呼ばれる先の大戦が勃発した。昭和20年(1945年)アメリカ軍の本土空襲が始まり、名古屋城、岡山城、和歌山城、大垣城、水戸城、福山城、広島城の7つの天守が消失した。これにより天守が残された城は13城に減少する。

昭和24年(1949年)に松前城の天守が失火により消失する。これにより天守が残された城は12城に減少する。

そして現在、見学できる城は全国で約200城ほどあるものの、明治以前、武家政治の時代に建てられた天守が残る城は12城を残すのみとなった。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、高知城、松山城、宇和島城の12城がいわゆる現存十二天守と呼ばれている。とてもとても貴重なのだ。

やっぱり天守! まずは、現存十二天守のお城から

現存12天守のお城への登城は、弘前城を残すのみ。でもコンプリートはいつのことやら。

世界文化遺産 国宝 旧国宝 現存十二天守 望楼型 五重六階地下一階 別名:白鷺城

国宝 旧国宝 現存十二天守 望楼型 三重三階 別名:金亀城

国宝 旧国宝 現存十二天守 構造は望楼型で外見は層塔型 五重六階 別名:深志城

国宝 旧国宝 現存十二天守 複合式望楼型 四重五階地下一階 別名:千鳥城

国宝 旧国宝 現存十二天守 望楼型 三重四階地下二階 別名:白帝城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 層塔型 三重三階地下一階 別名:金亀城、勝山城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 望楼型 二重三階 別名:霞ヶ城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 望楼型 四重六階 別名:鷹城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 層塔型 二重二階 別名:高梁城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 層塔型 三重三階 別名:亀山城、蓬菜城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 層塔型 三重三階 別名:鶴島城

重要文化財 旧国宝 現存十二天守 層塔型 三重三階 別名:鷹岡城 未訪問! 桜満開の季節に行きたい!