姫路城

姫路城の始まりは、南朝正平元年、北朝貞和二年(1346年)に赤松貞範が築城したとする説が有力。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城主となり、1580年に毛利攻めの拠点として羽柴秀吉が三層の本格的な城郭を築く。そして関ヶ原の合戦の後に城主となった池田輝政によって8年の歳月を掛け大規模な城郭へと大改修された。軍事拠点として、権力の象徴として存在した姫路城は現存する城郭建築の最高傑作といわれている。

1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産に登録された。

姫路城図屏風 寛保元年(1741年)以降

播州姫路城図(大絵図)元禄十二年(1699年)~宝永元年(1704年)

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平成19年 平成の大修理の前の姫路城へ  家族で世界遺産! 曇り空、ジミめ

平成21年(2009)から平成27年(2015)に行われた「平成の大修理」の2年前、平成19年(2007)に訪れた。この日は天気もどんより、屋根も壁もすっきりとはしていない。手前の樹木も茂り過ぎていて天守を隠す。

今思うと壮観でシブいが、優雅さ綺麗さに欠ける。

近くで見ると白壁も薄汚れている。左が乾小天守、右が西小天守、中央が大天主。ここからは見えない東小天守の四つの天主を渡櫓で繋いだ連立式天主。

天守の軒先の角がそろっていない。「不揃いの美」という未完成さを演出するための設計。完成は崩壊の始まり、という考えによりあえて未完成にしている。

天主内部には鉄砲があったり。

平成27年 平成の大修理の後の姫路城へ  家族で世界遺産! 快晴、さくら満開

そして「平成の大修理」の後、平成27年(2015)に再度訪れた。天気も快晴、桜も満開。これぞ別名白鷺城の名のとおり。

三の丸から天守を望む。5年半の歳月と28億円の費用をかけて、延べ15,000人の職人さんの腕前と最新工事技術の融合により、強く美しく修理した。これぞ国宝そして世界遺産、世界に誇れるお城となった。

満開の城桜に映える姫路城。

ずっと見ていても飽きない。

ウワサどおり真っ白だ。白すぎるという声もあるが、そんな事はないぞ! とってもいい感じ。

屋根の漆喰が白さを際立てているが、数年でカビが生えて小天守のようなグレーになるらしい。

この白さのままの方がいいと思うなぁ。

さぁて、B級グルメ「姫路おでん」と、「どろ焼き」を食べて帰ろう。「姫路おでん」は、しょうが醤油で食べるおでん。でもこの季節はどの店もやっていない。「どろ焼き」は、おもてはパリッなかはトロリ、スプーンですくって特製だしをつけて食べる、お好み焼でもなく、もんじゃでもないという粉もんフード。

令和2年 青春18きっぷで世界遺産! 姫路城でうなる

コロナ禍の令和2年。春は「Stay Home」だったが、この夏は「Go To Campaign」とな。さぁ感染予防対策万端でどこ行こうか。

大阪から姫路に向かうには、たった28分で着く新幹線が最速だろう。でも、安上がりをモットーとする身には贅沢すぎる。普通電車だとJR新快速が1時間2分で1,520円、阪神山陽直通特急が1時間35分で1,300円と速さはJRに軍配が上がり、安さは阪神山陽に軍配が上がる。でも夏の青春18きっぷの季節、JR新快速一択でしょう、という事でお得感は薄いが残り1回分の青春18きっぷを使い切るため登城してきた。ちなみに、そのあとは岡山まで足を延ばしレトロ駅舎を官能する。

JR姫路駅前は都会だなぁ。人口52万人の姫路市は兵庫県の西部に位置する播磨の中心都市。

姫路駅前から延びる大手前通りは、ドドーンと姫路城が見通せる。バツグンの存在感に心が振るえまくる。

姫路駅前から姫路城まではアーケード商店街で繋がっているのでので、真夏の炎天下を歩かず日陰をブラブラと歩いて行ける。

みゆき通り商店街が終わり、本町商店街と名前が変わるが、ココから先は旧城域だった場所。

商店街入口の東西には石垣の遺構が続いていて、かつては外堀もあった。

大手前公園には土産物屋や飲食店が建ち並び、人力車が観光地を盛り上げている。

国宝 姫路城

内堀に掛かる桜門橋を渡り、大手門と呼ばれる桜門から内曲輪に入る。

世界遺産 姫路城 1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産に登録された。

広大な三の丸。往時は、向御屋敷、御居屋敷、武蔵野御殿と呼ばれる3つの御殿が建ち並んでいた。向御屋敷は藩主の下屋敷で、藩主がプライベートタイムを過ごす別荘的な建物で、池や築山、茶室を備え来客をもてなす迎賓館としての役割もあった。御居屋敷は御居城とも本城とも呼ばれ、政務を司る藩庁と公式な藩主との対面場所であった表と、藩主の日中の御座所である中奥、そして藩主の寝室や正室側室の住居である大奥があり、江戸時代の典型的な城郭御殿形式の建物だった。武蔵野御殿は、元和3年(1617)に池田家の後を受け姫路の城主となった本多忠政が息子の忠刻と千姫の新婚夫婦のために建てた下屋敷で、屋敷の襖絵にすすきの画をあしらう事で千姫の故郷の江戸武蔵野の風情を表したからといわれている。

姫路城俯瞰図。明治の初めに、三の丸一帯には旧陸軍の兵舎が建設され、御殿群は撤去されてしまった。

平成の大修理から5年が経ち、真っ白だった屋根の漆喰が落ち着いたグレー色となり、真っ白城とは呼べなくなった。

大天守は、五重六階地下一階の望楼型。天守台の高さは14.5mで、その上に31.5mの大天守が築かれている。

広大な三の丸を通り、入城口で入場料を払う。緩やかな坂の上に見えるのは二の丸への入口を固める「菱の門」。

連続武者窓と華灯窓の美しい「菱の門」は、両方の柱の上の冠木に木彫の菱の紋が彫られていることからこう呼ばれている

菱の門をくぐると、播磨、淡路、備前の三ヵ国から人夫を集めて築いた三国掘越しに天守群が望める。大天守と小天守の複雑な意匠と配置構成により、堂々かつ美しくそびえ建っている。「いの門」に進み天守を目指すか、それとも先に西の丸へ寄り道するか、どうしようか。

「いの門」は、高麗門の様式でコの字に組んだ柱に小さい屋根を乗せている。

「ろの門」は、鉄筋饅頭金物や八双金物などで装飾されている。土塀の狭間から矢や鉄砲で敵の進入を防御する。

緩やかな坂道に連なる「はの門南方土塀」越しに望む天守は超有名なワンショット。「にの門」の工事足場により残念な眺めとなった。

「はの門」は、櫓門の様式で、秀吉時代に建設されたもの。柱によって自立しており、両側の石垣を崩して敵の侵入を防護する。

「にの門東方下土塀」越しに天守群を望む。乾小天守と西小天守の奥に大天守の最上階が見える。

「にの門」は、本丸への最後の関門として姫路城で最大級の防御と攻撃をおこなえる櫓門。この日は工事中のため足場が組まれシートで覆われていたため櫓は見えないが、一面鉄板で覆われた門の上には折れ重なり合った櫓が3棟建っており、門を入ると内部の天井は低く、足元は右に曲がる階段を登らなければならない。

「にの門」を過ぎると、西北腰曲輪に出る。乾小天守がもう目の前にそびえている。

総鉄板張りの「ほの門」。門の内部を階段にしており門を閉じればその空間に石を積めることができる。さらには門のサイズは非常に小さく、一度に多くの敵兵が通れず時間稼ぎをすることができる。

「油壁」と呼ばれている「水の一門北方築地塀」。この壁は漆喰塗籠めの白壁ではなく、茶色の土がむき出しの土壁で、高さ2.8m、底部の厚さは1.2mもある非常に大きな壁。「築地塀」の奥には「水の一門」が建つ。「水の一門」は、両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけ片開き扉を付けた簡単な構造の棟門。ここからいよいよ天守脇の水曲輪を縫うように進んで行く。

「水の二門」は両開き扉を付けた棟門で、乾小天守の石垣とカギ型に折れて張り出した櫓との隙間に造られている。水曲輪はどうやら緩やかな下り坂道となっている。今まで上りばかりだったので順路を間違えたのかという錯覚に陥る。

「水の二門」をくぐり上を見上げると、乾小天守の石落しに狙われている。

「水の三門」は、頭上が低く体を屈めて通らなければならない。幅も1.5mほどしかなく、大勢で通り抜けるのには時間が掛かる。

見上げると大天守がそそり立っている。天守最上階はまだまだ先だなぁ。

土塀の下に設けられた「水の四門」を抜けると大天守の南西の角に出る。ココでも石落としに狙われている。

「水の五門」は、大天守と西小天守をつなぐ二階建ての渡櫓の下に構える。扉や柱や冠木は全面鉄板で覆われ、上部の渡櫓の窓には鉄格子がはめられている。渡櫓のには漆喰が塗られ口を閉ざした隠し狭間が2階に3つ、3階に3つ備えられている。こんな門をどうやって攻めればよいのか、命がいくつあっても足らないなぁ。

西小天守の地下部分に付けられた「水の六門」をくぐると、いよいよ西天守の内部かと思いきや、まだ中には入れない。この先は台所櫓があり天守群に囲まれた内庭へと出る。「水の六門」には黒漆の上に金箔で縁取りされた「柱頭飾板」が取り付けられ豪華な気分になる。

狭く急な階段を登る。敵が隠れているとしたら恐怖でしかない。

順路に沿うと「ロの渡櫓」を通る。平成の大修理以降、往時の姿を再現するため天守内部に展示物を置かないようにしている。以前展示されていたものは西の丸に移されている。

順路に沿うと「イの渡櫓」からようやく大天守の1階へと入る。

順路とは違うが先に大天守の地下1階。石垣に囲まれた地階は6つの部屋に分けられ武具庫として使われていたが、流し台や厠もある。中心には2本の心柱が立ち、「東の心柱」は、樅の一本材であったが、築城から約50年で根元が腐り始め、腐った部分を削り、そこに新たな部材をはめ込んで補修されていた。昭和の大修理の際に、根元部分5.4mだけを台湾檜で根継ぎをした。「西の心柱」は、二本材だったが全長で腐敗が激しく、昭和の大修理の際にすべてを交換した。檜の一本材を日本全国探したが、二度にわたり伐採時に折れてしまい、継ぎ足して使用した。

1階と2階は武者走りに囲まれている。内陣は北側に3部屋、南側には3部屋分の広さの大広間がある。

壁には鉄砲や槍など備えていたに違いない。

梁が太くたくましい。

大天守2階の千鳥破風。

大天守2階の内陣。

内陣の中央には西の大柱と東の大柱が通っている。

格子窓から南の方角を望むと、大手前通りの先に姫路駅が見える。八角形の格子には鉄板が入っている。八角形の木材に鉄板を巻き漆喰で固めている。

2階部分の東の大柱。

大天守3階は他の階に比べ天井が高く広々とした印象。4階へと登る階段には途中に踊り場があり、Uターンして上がっていく。どう考えてもその先には武者がいるに違いない。

天守4階には、石打棚という上に乗って窓から城外の敵を攻撃するための台が壁際4面に付けられている。四隅に設けられた千鳥破風からは屋根に出ることができる。千鳥破風内部の床材は築城当時のものとか。

薄暗い大天守5階。四隅には入室が据えられている。地下から大天守を貫いてきた大柱は5階の天井で先端となる。昭和の大修理の際に新しくなった「西の心柱」の最上部。

こちらは東の大柱の先端部分。東の大柱は根元は昭和の大修理で新しくなったが上部は築城当時のもの。この上に400年余り最上階が乗っている。

これが、昭和の大修理の際、取り換えられたオリジナルの「西の心柱」。上部が12.4mの栂の木、下部が14.5mの樅の木で、二本を繋いで全長24.7mの心柱としていた。池田輝政の築城時より350年間、「東の心柱」とともに、この「西の心柱」が地階の礎石の上から6階最上階の床下までを貫通して建物を支えていた。今は三の丸に展示されている。

大天守6階の最上階は、書院造の要素で造られ、廻縁よりも内陣の床面が少し高くしてあり、他の階では無かった天井が設けられている。

内陣には姫路城の守護神刑部神社が奉られている。

南方。眼下には三の丸が広がっている。

西方。眼下には西の丸が広がっている。

ということで、天守を出て、備前丸から天守群を望む。池田輝政が姫路城を築城したとき備前丸に御殿を建て、家族共々住んでいた。

石垣の高さは15m、建物の高さは31m、合計46mもの高さがある堂々たるいでたち。

備前丸にいると大天守が見下ろしているような感覚になる。

総重量5,700トンもある建物が石垣の上に建つ。ものすごい迫力。

各階の屋根の軒先は不揃いの妙。

天守の庇により石垣の上半分には雨が余り当たらず、下半分は雨が当たるため、長い年月により石が黒ずんでいる。

池田家が城主の時代には備前丸に城主の居館があり、その備前丸の入口を固める「備前門」は、扉や柱や梁もすべて鉄板で覆われ鉄壁の防御を図っている。

帯の櫓から太鼓櫓北方土塀が続き、太鼓櫓が見えている。

「りの門」をくぐると上山里曲輪。

上山里曲輪から備前丸の先にある天守を望む。備前丸の石垣の上に往時はすべて櫓と長局が建っていた。お菊井戸があるのはここ上山里曲輪。

上山里曲輪の入口を固めるのは鉄壁の守りを誇る「ぬの門」。扉も柱も冠木もすべて鉄板で覆われ、二階建ての渡櫓から上部より攻撃する。櫓の窓には鉄格子が入り、隠し狭間が設けてある。

続いて西の丸へ向かってみよう。西の丸は鷺山と呼ばれる丘を整地した場所にある。元和3年(1617)に伊勢国桑名藩から姫路に入城した本多忠政は、すぐさま鷺山を造成し多門櫓の建造をおこない、嫡子の忠刻と千姫のための中書丸御殿を建造した。これは、姫路城の西方には男山と景福寺山という小高い丘があるが、それらを敵に占領されると城の西側の防御が困難となり、そのため忠政は入城後すぐに西の丸を整備したものと思われる。

西の丸を取り囲むように櫓と渡櫓が連なっている。

土塀はすべて重要文化財。

ワの櫓からレの渡櫓へ。

長い長い渡櫓の百間廊下を進んでいく。

ヨの渡櫓は長局で、小さな部屋が廊下に面して並んでいる。西の丸で働く女中たちが住んでいた。

長局の北の端に建つ化粧櫓は、千姫が男山にある天神社を拝むため西の丸に来た際、身づくろいや休憩をした場所。

化粧櫓の内部は、大きな窓や床の間があり、畳が敷かれている。おお~千姫がいる♪

千姫が夫の忠刻の無事を祈り拝んでいた天神社のある男山を西の丸の渡櫓から望む。

西の丸から天守群を望む。ココから見る姿が一番かっこいいかもね。