藤川宿から赤坂宿、御油宿、吉田宿 その1

昨日は四日市から出発し桑名宿、宮宿、鳴海宿、池鯉鮒宿、岡崎宿と走り、岡崎のスーパー銭湯とネットカフェをハシゴしなんとか朝を迎えた。今日はどこまで行けるのか。今日中にうちに帰れる電車の時刻まで無計画で進む。

岡崎市内からおよそ35分で藤川宿の入口まで来た。昨日の疲れが残っていて足が重い。

藤川宿

上段:スタンフォード大学所蔵 大日本帝国陸軍測図の地形図   下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、藤川宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋36軒、家数302軒があった。江戸日本橋まで、あと78里34町45間。

藤川宿には松並木が健在。

名鉄特急パノラマスーパー。反対側の先頭車は展望車両になっている。

吉良道道標。文化十一年建立。南西に進む吉良道は西尾、平坂、土呂へと続く道。

藤川小学校には棒鼻が再現されている。今日は盆踊りらしく小学校のグラウンドでは皆さん準備真っ最中。

藤川宿脇本陣。この門は江戸時代のもの。

藤川宿脇本陣跡。資料館になっている。

藤川宿の模型で当時の雰囲気がよく分かる。

藤川宿本陣跡。藤川宿は慶長六年に整備された。

米や むらさき小町。田野村家住宅。

改装中のよう。

格子造りの屋並。

藤川 棒鼻ノ図

歌川広重 東海道五拾三次 藤川 棒鼻ノ図 保永堂版

街道をはさんで奥に榜示杭(ぼうじぐい)、手前に高札場の屋根、両側の土盛をした石垣が画かれ藤川宿の入り口だとわかる。入り口には宿場の役人らしき二人の男が土下座をし頭を垂れ、通りがかりの旅人も笠を取って膝を突いている。出迎えているのは幕府が朝廷に馬を献上する八朔の御馬進献(おうましんけん)の行列。かしこまって身を低くした宿場役人たちの緊張をよそにじゃれ合っている子犬たちがユーモラスだ。

藤川宿の東の端に棒鼻が復元されている。歌川広重の画を意識した配置。遠くで畑仕事しているお父さんを呼びたいが忙しそう。

田園風景は日本の原風景。

遠くに赤鳥居が見える。参道の先には大きな常夜燈が鎮座している。

本宿にある宇都野龍碩邸跡。

神谷合名会社。

格子窓にすだれを吊ったお宅は珍しい気がする。

やすい。

本宿の東端。

こんな田舎出身じゃあないが、何だか懐かしい気がする。

赤坂宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治26年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)に調査した調査宿村大概帳によると、赤坂宿は、本陣 3軒、脇本陣 1軒、旅籠62軒、家数349軒だった。小規模な宿場だが古くからの宿場で、遊女は全国的に有名だった。江戸日本橋まで、あと76里25町45間。

赤坂宿。よらまい館。

はたごをイメージした休憩施設。当時の建築様式で再現している。

旅籠 大橋屋。正徳六年(1716年)の建築。間口九間、奥行き二十三間ほどだった。入り口の見世間、階段、二階の部屋は往時の様子を留めている。

広重作の隷書東海道赤坂に画かれている。

赤坂宿の旅籠のなかでは大旅籠に属する。

赤坂 旅舎招婦ノ図

歌川広重 東海道五拾三次 赤坂 旅舎招婦ノ図 保永堂版

当時の旅籠の内部を画いている。庭にはソテツが植えられ廊下の角で隣接する二部屋を捉えた構図。右手の布団部屋のような部屋で鏡台に向かっているのがこの旅籠の飯盛女たちで、客の前に出るための準備をしている。左の部屋では旅装を解いてくつろぎ煙草をくゆらせる客のもとに宿の女がお膳を運んできている。その横ではかしこまった按摩(あんま)が用の有無を伺っている。廊下には湯から上がった男が手ぬぐいを肩にかけ帰ってくるなど夕餉時の旅籠の活気ある様子がつたわる。

旅籠 大橋屋の内部は現在改装中。2015年3月まで旅籠の営業を行っていたが創業366年目にして豊川市に寄贈された。

尾崎屋。

本陣跡。宝永八年(1711年)の間取り図によると間口十七間半、奥行き二十八間、部屋の畳数422畳、門構え玄関付きの大変立派なものだった。

今も大切に住まわれている。