藤川宿から赤坂宿、御油宿、吉田宿 その2

昨日は四日市から出発し桑名宿、宮宿、鳴海宿、池鯉鮒宿、岡崎宿と走ってきた。今日は岡崎を出発し藤川宿、赤坂宿と走ってきた。電車のタイムリミットまで東へ進む。

天然記念物 御油ノ松並木。およそ600mに渡りおよそ270本の松の木が立ち並ぶ。

松並木はつづく。

まだまだつづく。

古民家カフェ「Pino Cafe」。ハラ減った。カフェごはんしたいが先に進む。木曜定休。

御油宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治26年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)に調査した調査宿村大概帳によると、御油宿には、本陣4軒、脇本陣はなく、旅籠62軒、家屋316軒があった。浜松から浜名湖の北側を通る本坂道は、気賀、三ヶ日、嵩山を経て御油につながる。江戸日本橋まで、あと76里9町45間。

山車車庫だろう。

御油 旅人留女

歌川広重 東海道五拾三次 御油 旅人留女 保永堂版

赤坂宿から松並木を進むとほんのつかの間で御油の家並みに到着する。東海道の宿駅間の距離としては最短のわずか16町(1.7km)しかない。目と鼻の先のところに似たような規模の宿場があり、客の争奪戦は大変熾烈なものだった。夕暮れの訪れた宿場の往来の真ん中で旅人の腕や肩の荷物を無理やりつかんでいる女たちが留女。自分の勤める旅籠に旅人たちを引きずり込んで、強引に泊らせようとしている。右側の旅籠の中では今到着した客が草鞋を脱いで足を洗っている。梁から吊り下げられた札はこの宿と特約を結んでいる講の名前が書かれる筈だが、この版画に携わった人々の名前が記されている。

格子窓の旧家が建ち並ぶ様は広重の画に相通じる。が、人がいない。

問屋場跡。空き地に立て札。想像力が要求される。

辻を折れると御油宿も終わる。

音羽川を渡る。

カメ吉が日向ぼっこ。よく見るとミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)。

うちにもミドリガメのカメ吉が居た。うちの近くの公園で子供が500円玉ほどの大きさの亀を拾ってきた。とっても小さくて可愛らしいかったので水槽で飼っていたが、1年もすると立派な亀へと成長する。そして夏場は部屋の中がドブのような悪臭で満たされる。3日に1回は水槽を洗い、水を換えるのが日課になっていた。でも水を換えたとたんウンチをカマされガックシとなるのだった。そんなカメ吉も水槽サイズへと成長し、ますます食欲旺盛、血気盛ん、傍若無人な亀へと成長する。あぁもう飼えない、という無責任な心が芽生え始める。そんな感じで捨てガメされた亀たちによって、日本の生態系が壊れているのだろう。亀に罪はない、すべては人間の愚かさなんだ、責任をもって飼っていこう。という気持ちと、ええぃ捨てちまえっていう気持ちが交錯する。

調べていると、神戸にある須磨海浜水族園では、野生のミシシッピアカミミガメを1匹持ち込むごとに、「アカミミガメパスポート」という無料入園券をくれるらしい。これはもう狭い水槽を出てたくさんの仲間と広い水族園の池で生きていくほうがカメ吉のためだろう。といやがる子供を説得し、カメ吉とお別れをしたのだった。本当は飼っていたカメはダメみたいだが、そこはそれウマイ事言うのが仕事な訳で。。。

名鉄をオーバーパス。豊橋はまだかいな。

憧れの飯田線。天竜、飯田、伊那を抜け諏訪までの各駅停車の旅。

豊川放水路。人工の川。

旧街道らしい趣。

吉田宿

上段:今昔マップon the web 明治23年測図 明治26年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)に調査した調査宿村大概帳によると、吉田宿には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は65軒、家屋1,293軒があった。人口は5,277人と三河国東部随一の町場だった。江戸日本橋まで、あと73里23町45間。

この橋の名は?

ずばり豊橋。

吉田宿本陣跡は鰻屋さん「丸よ」。ウナギでも食ってパワーチャージしたいところだが、貧乏旅な訳で、、

豊橋市内には路面電車が走っている。全面広告ラッピング電車。

おお、ビール電車とな。どういうシステム? キリン一番絞りが飲み放題!およそ1時間半の行程で3,300円也。めっちゃ楽しそう。でもトイレはどうするの?

吉田城跡。今は豊橋公園とよばれている。

吉田城案内図。昔は堀に囲まれた立派な城郭だった。

永正2年(1505)牧野古白により今橋城が築かれたことに始まり、戦国時代に吉田城と改められた。永禄7年(1564)松平家康(徳川家康)が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置く。 天正18年(1590)池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行う。江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城したが、財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えた。

本丸に向かう。

イスノキ。なるほど座れそう。

吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)。昭和29年(1954年)模擬再建された。天守が倒壊して以降は鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられている。

当時は本丸の四隅に櫓が四基。鉄櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓、そして川沿いに川手櫓があった立派な城。

今は鉄櫓だけが復元されている。

吉田 豊川橋

歌川広重 東海道五拾三次 吉田 豊川橋 保永堂版

吉田宿は吉田城の城下町で当時の城主は7万石の松平伊豆守信順。その吉田城の櫓が大きく画かれているが、城は足場を組んで修理の真っ最中で、足場の上から職人が手をかざして豊川橋を眺めている。豊川橋は吉田大橋のことで、橋の長さは120間(216m)、岡崎の矢矧橋、大津の瀬田の唐橋と並んで東海道の三大橋のひとつに数えられていた。

歌川広重の画はドローンでも無いと撮れないアングル。左右逆になるが吉田城の鉄櫓(くろがねやぐら)と吉田大橋を収めることができた。でも広重の橋はもう一本下流の橋、豊橋。

急坂をくだり、鉄櫓を下からのアングルで。野面積みの石垣は、池田輝政が城主だった16世紀末のもの。

鉄櫓、別アングル。こちらの石垣は打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)によるもので、17世紀前半頃に天下普請で築かれた名古屋城築城の際に余った石材を転用して組まれた。

豊橋市内は思っていたよりもけっこう都会。今日は次の二川宿まで進むか、もう豊橋で終わるか。青春18きっぷで普通電車オンリーで帰ると家まで5時間近くかかるし、もう引き上げよう。

豊橋駅はなんとも立派でおしゃれ。飽き性で旅が途切れないよう駐輪場に自転車を一時預かりに預ける。前回の四日市でやらかした事をまったく懲りていない。料金が膨れ上がらないまでに早いとこ舞い戻ってこなければ。

駅前も栄えている。帰りの電車賃を安く上げようと、駅近くの金券ショップに寄るが、青春18きっぷの残数が少ない券は置いてなかった。

みどりの窓口で青春18きっぷを衝動買い。9月10日までにあと4回、使い切らねば大損だ。みどりの窓口では駅員さんに東京までの行き方をあれやこれやと相談しているおばちゃんのおかげで15分近く待たされ、乗ろうとしていた電車に間に合わなくなる。結局そのおばちゃんは切符を買わずに帰っていった。どういう事やねん。豊橋駅15時21分発の大垣行き新快速に乗る。なぜか隣に座り合わせたお姉さんと雑談に盛り上がり楽しい車内となりました。

となりの席のお姉さんと盛り上がりながらも、名古屋で急に味噌カツが食いたくなり扉が閉まる直前に途中下車。そういえば昼メシを食べてなかった。

米原でJR西日本の新快速に乗り換える。夕焼けがきれいだなぁ。このあと大阪まで爆睡。

おみやげは遠州みそまん。味噌の香りがするあんこの饅頭。