坂下宿から関宿、亀山宿、庄野宿 その2

関宿の江戸情緒満載のとても良い景観を堪能し、後ろ髪を引かれながらも先へ進む。

一旦、国道1号線に出て小野川を渡る。

国道1号線を右折しJR関西本線の踏切を越えて行く。遠くに見える高架道路は東名阪自動車道だろう。

小野川の見晴らしの良い堤防の道を西名阪道の高架に向かって進む。やがて高架道路の下をくぐり並木道の気持ちの良い通りを進んで行くと線路をまたぐ大きなコンクリート製の陸橋が見えた。陸橋を登りたくないので関西本線の線路沿いを進む。かなりな距離を進んだところで旧東海道から逸れていることに気付く。さっき登らなかったコンクリート製の陸橋が実は旧東海道だった。踏み切りを渡り旧東海道に合流するには目の前の坂道を行くか、陸橋まで戻るかどちらかだ。せっかくなので旧東海道をトレースするため陸橋まで戻ることにした。

追い越しざまに大きな声で挨拶をしてくれた少年。今からプールにでも行くのかな。

亀山市の西の外れにある、野村一里塚。樹齢四百年の椋の木。椋の一里塚は日本でここだけ。

スプライトとボンカレーの看板がなつかしい。

骨董カフェ。亀山宿もほど近い。

亀山宿

上段:スタンフォード大学所蔵 明治25年測量 大正12年修正 大日本帝国陸軍測図の地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、、亀山宿は東町に本陣1軒と脇本陣1軒があり、東町と西町合せて旅籠屋21軒、家数567軒があった。戦国時代からの亀山城の城下町。西の京口門跡から東の露心庵跡まで約2.5kmの城下町らしい曲がりくねった道や坂道が多い町並み。江戸日本橋まで、あと104里23町7間。

京口坂橋。昔はこの辺りに京口門があったようだ。

亀山(雪晴)

歌川広重 東海道五拾三次 亀山 雪晴 保永堂版

保永堂版が画かれた当時の亀山宿は石川氏六万石の城下町であった。東海道は城の南側を鉤状に折れ曲がりながら通っていた。高台の上にある亀山城に向かうこの画のような坂道は城の西出口である京口門にある。一面銀世界となった冬の朝、急な坂道を登る大名行列が画かれている。坂の上には亀山城の櫓。

歌川広重の亀山宿の画は、雪に覆われた亀山城の京口門への坂道を大名行列が登っている。雪なんぞ季節が違うし京口門も今は無い。しょうがないので京口坂橋を渡ったすぐ左手にある梅巌寺の山門を亀山城京口門に見立ててみた。

亀山の城下町を進んでいくと遠目に亀山城跡が見えてきた。手前に見える工事中の池は元は亀山城のお堀だったよう。

亀山藩家老加藤家の屋敷跡。長屋門や土蔵、屋敷が残っている。今日は開放されているので中に入ってみる。

屋敷跡内部。

亀山城へ登ってみる。戦国期からの城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれた。往時は本丸、二之丸、三之丸からなり天主も建てられていた。天主は寛永9年(1632)に丹波亀山城と間違えられ解体された。

唯一残っている城郭建造物の多門櫓。明治6年の廃城令により全国の城郭が取り壊された。ここ亀山城もそのひとつ。ああもったいない。

立派な野面積みの石垣は今も健在だ。

隣接の亀山公園にはC58 359が静態保存されている。昭和19年1月27日に川崎車両神戸工場にて製造された蒸気機関車。廃車となった昭和45年3月25日まで26年間戦中戦後走り抜けてきた。

南側から望む多門櫓。

亀山城を後にし、旧東海道に戻ってきた。亀山市内を東へ進む。鍵形の通り(今風に言うと逆S字カーブ)を進む。

旧東海道は東町商店街へと変わっている。樋口本陣と椿屋脇本陣はこの付近にあった。

亀山城の江戸口門跡。今は何も残っていない。ここから旧東海道は左折する。

亀山といえば、やっぱりカメヤマローソク。

国道306号線を横断しさらに東進すると和田一里塚。慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主の関一政が築造。しかし道路拡張により潰された模様。これは偲んで模式復元したものらしい。日本は破壊の繰り返しだが、歴史遺構を安々と潰してしまうこの国の住人達の文化意識の低さには呆れてしまう。開発のほうが優先なのか。

関西本線を右手に見ながら進むと国道1号線が現れる。道路下をくぐり。椋川を渡ると旧家がちらほら。西信寺を過ぎ右折すると国道1号線を横断しなければならない。4車線の国道はとても交通量が多い。そばに自転車も通れる陸橋があるので横断歩道が無い。しかしちょうど青になったので一気に渡ってしまった。自転車に乗っていると車優先に腹が立つ。

関西線井田川駅前のロータリーを意味も無く一周してみる。駅には女子高生がきゃっきゃ言っている。関西線の踏み切りを渡り、旧街道らしい町並みを抜けると安楽川の土手に出た。

安楽川を渡る和泉橋の上からは、今日越えてきた鈴鹿の山並みが見える。河原で野球をやっている少年たちを見ながら「思えば遠くへ来たもんだ~♪」と口ずさむ。なんだか人恋しい。

国道1号線の巨大な高架橋をくぐり、方向音痴におちいりながらも庄野宿に到着。

庄野宿

上段:今昔マップon the web 明治22年測図 明治26年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、庄野宿は、本陣1軒、旅籠15軒があり、家数211軒、人口855人と小さな宿場だった。江戸日本橋まで、あと102里23町7間。

ちょうちんがいいな。

庄野宿本陣跡は今は集会所となっている。

油問屋だった旧小林家住宅。今は庄野宿の資料館となっている。とても愛想のいい上品そうなおばちゃんが案内してくれた。おばちゃんというよりご婦人というほうがいいかも。人恋しさもあり案内のおばちゃん相手に話し込む。この先、旧東海道は国道1号線に飲み込まれている。そちらを行くと皆さんがっかりするらしい。ぜひ加佐登側を行くようにとパンフレットをもらう。どうやら歌川広重の庄野の画は関西本線 加佐登駅北側の坂道がモデルだそう。教えてくれてありがとう。

資料館の中には高札場に実際に掲げたあった高札が展示してある。たしか160年近く高札場に掲げてあった物だとか。文字がうっすらと見える。おばちゃんに説明してもらったが詳細は忘れた。

庄野宿の本陣模型なんかもある。

焼き米。これもおばちゃんに説明してもらったが詳細は忘れた。あとで調べたところ、握りこぶし大の小俵に入った焼き米を土産として売っていたようだ。

という訳で、おばちゃんに見送られながら旧小林家住宅、庄野宿資料館をあとにする。

おばちゃんのお勧めどおり1号線を進まず関西本線 加佐登駅へ向かう。東海カラーの313系1300番台。2両編成。

庄野宿(白雨)

歌川広重 東海道五拾三次 庄野 白雨 保永堂版

白雨とは夕立やにわか雨の事。客を乗せた駕籠かきと、急な雨を避けるため坂道を急ぐ姿が画かれている。庄野宿は伊勢平野を流れる鈴鹿川沿いにあり、宿場の近くには急な坂はない。

歌川広重の庄野の画は、関西本線 加佐登駅北側の山沿いの道がモデルと考えられていると、旧小林家住宅資料館のおばちゃんに教えてもらった。背後には鬱蒼とした小山があるが坂道はない。自転車で通りかかった高校生を入れ込んでみた。そして雨ではなくいい天気。旧東海道は国道1号線に飲み込まれていて面白くもなんとも無い。こちら側を行くほうが風情がありよろしい。

この先、石薬師宿までは田んぼの中を進んで行く。ただし国道や鉄道に分断され進む道筋は分かりにくい。青空に緑の田んぼは日本人の原点。心が洗われる。