四国八十八箇所を巡るため、まずはご挨拶からと東寺を目指し、そして三条大橋から旧東海道を東進し大津へ、そして瀬田の唐橋へ出掛けた自転車旅からも、四国遍路への思いは益々膨らんでゆく。
東寺で買った納経帳は、東寺から始まり、次は高野山奥の院となっている。その次が一番札所霊山寺である。高野山奥の院には結願の後にお礼参りにと思っていたが、弘法大師さんが今も霊廟にて弾定を続けられているという事を知り参拝しようと思う。
高野山は、紀伊山地の標高900mの山々に囲まれた盆地に、弘法大師空海が真言密教の根本道場として真言密教の聖地として開いた。弘仁七年(816)に創建された金剛峰寺は、明治以前は高野山全体を総本山金剛峰寺といい、一山境内地とされていた。山内は奥之院と壇上伽藍を二大聖地として信仰を集めている。高野山の山下には金剛峰寺の運営の便を図るため政所として建立した慈尊院や、金剛峰寺の荘園であった官省府荘の鎮守社として建立された丹生官省府神社、丹生明神と高野明神を祀る丹生都比売神社が建立され、参詣道として高野山町石道で結ばれている。
偶然にも、和歌山の橋本市へ仕事に出掛けなければならなくなった。ついで参りとなるが、気持ちが高ぶり、高野山へ足を延ばそうと密かに計画した。橋本市での午前中の仕事を終え、急ぎ九度山を目指す。今回は車で行くが、四国八十八箇所を結願したあと、お礼参りの暁には自転車で行くことを心に誓う。
上から読んでもしたから読んでも橋本橋という紀ノ川に掛かる橋を渡り、国道370号線を西へ向かう。
途中、国道沿いにある南海電車の学文路駅に寄ってみる。この駅名は、「かむろ」と読み、学問の神様・菅原道真公が祀られている学文路天満宮の最寄り駅。学問の路に通じるという意味に取られ、受験生にはありがたがられる駅のようだ。徳島にある学駅と同様、受験シーズン前には5枚入り記念入場券が発売される。今日は発売時期ではなく、階段を上った先にあるレトロだがどこか洋風な駅舎はひっそりとしている。駅でトイレを借りたのち、さらに国道を西へ走る。HDDエラーのため写真消失、画像は南海電鉄HPより。
世界文化遺産に登録された、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と、「大峯奥駈道」、「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」、「高野山町石道」の参詣道で構成されている。これは「自然と人間の営みによって形成された景観」という、一般的な文化財の枠組み越えた幅広い内容を含んでいる。古くより神々が宿る場所として崇拝され、山岳修行の場所となった山々や、昔から今なお受け継がれている修験の文化や、門前町の風情を残す町並み、参詣道を徒歩で進み行き自然と接触を重ねること、御神木として献上され保護されてきた木々、それらが文化的景観として評価された。
九度山交差点を右折、真田庵をすぎ丹生橋を渡り、今は緑に茂った桜の並木道を過ぎると慈尊院。無料駐車場に車を停める。石垣の上の古びた土壁と質素な山門が歴史を感じる。13段の石段を上り山門をくぐる。ここ慈尊院は弘法大師が高野山の表玄関として伽藍を草創されたのが始まり。讃岐から訪れた弘法大師の母君でさえ、女人禁制の高野山には入山が許可されず、この地で亡くなったそう。それ以来、女人高野と呼ばれるようになった。もちろん世界遺産である。
慈尊院の境内に進むと、奥にそびえる朱塗りの多宝堂が目に飛び込んでくる。左手に本堂、右手に太子堂の配置。
元々慈尊院は、高野山が年貢の徴収や外部との交渉の場としておいた寺務所で高野政所とも言われたそう。
一通りお参りし、境内の正面奥にある石段を上る。その石段の途中の鳥居の右手に町石を見つけた。この町石が180番目の町石だ。しかし想像していたよりも随分と大きく背が高い。五輪卒塔婆の石柱に梵字と百八十町とという番号が刻まれている。その下の文字は読めない。土木重機の無い時代にこの大きな石柱を高野山まで1町おきに建てた昔の人のバイタリティーはすごいなと改めて思う。1町とはおよそ109m。22kmの山道に180本もの町石が、およそ109mおきに並んでいる。この町石の並ぶ高野山へ続く参道、これが高野山町石道である。もちろん世界遺産である。石段を上り、180町石を見ながら鳥居をくぐる。
180町石からさらに続く石段を上りきり、朱色の鳥居をくぐると丹生官省符神社。
世界遺産、丹生官省符神社。正面に拝殿があり、拝殿の奥に三棟連なった本殿がある。拝殿で参拝する。
丹生官省符神社の拝殿の奥にある本殿を見たいがよく見えない。奥には進めそうに無いので拝殿の右手より眺める。朱色の小じんまりとした社が三棟並んでおり、なんとも美しくかつ可愛らしい。
境内の右手より高野山町石道が続いていて、進んでいくと179町石はコンクリート舗装に建っている。これも世界遺産。
駐車場を過ぎて、池のほとりの道を進むと木々が生い茂り、いよいよ町石道の雰囲気が出てきたが、地面は舗装されている。土手の斜面に半分ほど埋まって建っている町石や、苔むしている町石を175町石まで見てから戻る。四国を結願したら、この町石道で高野山奥の院へ行こうと心に決めた。
車に戻り、九度山から国道370号線を右に折れる。センターラインの無い狭い道だ。対向車とのすれ違いに気を使う道幅だが、対向車はほとんどが地元の車だろうか、思いのほか勢い良く突っ込んでくる。途中、所々センターラインが現れホッとするものの、すぐに無くなる。やがて景色はますます山深くなり、右へ左へと道路は蛇行を続ける。
九度山から30分くらい走っただろうか、ふと左手に町石を見つけた。あわてて車を路肩に停めて降りてみる。この町石は三十九町石と刻まれている。深く埋まっているのか背は低い。その後も右手に三十八町石、左手に三十七町石が国道沿いに建っている。とすると、あと4kmほどで到着のようだ。
続く山道を走ると、突然左手に朱色の大門が目に飛び込んできた。威厳があり圧倒される大きさが車の中からでも伝わってくる。しかし車を停める場所を見つけられずスルーする。HDDエラーのため写真消失、画像はパンフレットより。
高野山の街中に進んでいく。みやげ屋や食べ物屋を見ながら進み、右手にある無料と思しき駐車場にようやく停めた。車を降り、先ほどの大門まで歩いて戻ろうかと考えていたが、道路の向こう側に大きな山門が見え、そちらに向かう事にした。
朱色の大きな中門をくぐると、金堂があり、右奥に根本大塔。ここが檀上伽藍であり、高野山の二大聖地とのこと。金堂は高野山の総本堂で重要行事はここで行われる。拝観料200円とのことでスルー。HDDエラーのため写真消失、画像はパンフレットより。
根本大塔は真言密教の象徴として建てられた多宝塔。こちらも拝観料200円とのことでスルー。HDDエラーのため写真消失、画像はパンフレットより。
金堂の左奥には御影堂。弘法大師が住まわれていたお堂で、弘法大師の肖像が祀られている。今日は拝観できないようだ。お礼参りの暁には、拝観料をケチらずじっくりと拝観しよう。今日は奥の院へ弘法大師にご挨拶に来た事を理由に車に戻る。HDDエラーのため写真消失、画像はパンフレットより。
お寺だらけの道筋を走り、金剛峰寺の前を通る。立ち寄りたかったが、駐車場がいっぱいなのでスルー。
みやげ物や食べ物屋、旅館にお寺が山ほど並ぶ通りを進むと、奥之院弘法大師と書かれた石碑を見つけた。奥之院の入り口のようだが駐車場がなく、そのまま杉木立の風景へと車を進める。
しばらくすると右手に駐車場が見えてきたので車を停める。ここも無料のようだ。
横断歩道を渡り、石柱の間を歩み入る。右の石柱には南無大師遍照金剛とある。左の石柱の文字は読むことができない。後で調べたところ、虚空儘衆生儘涅槃儘我願儘と書いているそうだ。近くの木の札には、「この世の迷い苦しむ人々が、すべてさとりを得て、幸せになるまでこの地に身を留めて、生きとし生きるものを救っていくという弘法大師のお言葉であります。この同行二人済世利人の有難い御誓願に対して、私達は南無大師遍照金剛の御宝号を以って信心の誠を捧げるものであります」。と、解説されている。どうも先ほど通り過ぎた、奥之院弘法大師と書かれた石碑の所が「一の橋」で正式の参拝ルートのようだった。そちらからのルートは、お礼参りの折に取っておく事にして、今日は中の橋駐車場より参拝する。
きれいに整備された石畳を進むと、特徴的なお墓が目に留まる。企業の特徴を形にした慰霊碑がたくさんあり、おもしろい。新明和工業のロケットやUCCのコーヒーカップの慰霊碑は、やりすぎだろっと思わず声に出して突っ込んだ。この付近はお墓をテーマパークにしたような観光地然としている。
お墓が整然と並ぶエリアから左に折れ、杉の大木が樹立する林の石畳の小道に踏み入れる。趣が変わり周囲は落ち着いた雰囲気となる。鈍感なほうだが、なにかしらの霊気を感じるような気がする。木々の合間に、苔むした沢山の五輪塔や灯篭、石碑が乱立している。ここまで沢山の石塔を建てた人々の思いと亡くなった人々の思いが混在し、見えないエネルギーとなり満ち溢れているような気がする。パワースポットと呼ばれる場所は、幾千の思いが集まった場所なのか。良い方向で吸収できれば良いな。
それぞれのお墓には、誰のお墓なのか分かるように名前が書かれた立て札が立っており、戦国武将の名前も沢山見ることができる。
次から次へと現れる歴史上の人物のお墓を見ながら、進んで行くと橋が現れた。いつの間にか付近には人が沢山いる。この橋が聖地の入り口、御廟橋。この先は写真撮影禁止とある。カメラを望遠にして橋の手前から奥の方を撮ってみる。わずかに見えるのが弘法大師御廟なのか。右手にある水向け地蔵で手を清め、アーチとなった御廟橋を渡り聖域へと進む。御廟橋から見えていたのは燈籠堂であった。
石段を登り、燈籠堂で手を合わせ、無事に四国遍路ができますようにと、お願いをした。弘法大師がご入定されている弘法大師御廟は、燈籠堂のさらに先であった。撮影禁止のため画像はHPより。
燈籠堂の横手を通ると裏側に回れる様なので歩んでいくと蝋燭やお線香台があり、お賽銭箱の周りに人がたくさん集まっている。その視線の先には山門があり、その山門の先の見えるお社こそが弘法大師御廟である。読経されている方もいるが、ガイドが団体さんを案内していたので、さりげなくくっつき、ガイドがしゃべる説明を聞いた。弘法大師は今もここ御廟の地下石室に居られ禅定に入られているそうだ。一日2回燈籠堂に食事が運び入れられ、メニューにはカレーやパスタもあると聞き驚いた。もう一度手を合わせ、無事に四国遍路ができますようにと、お願いをした。撮影禁止のため画像はパンフレットより。
お堂の右側には地下に入る入り口がある。階段を降りると、燈籠が並んでいる。奥に祭壇があり弘法大師のお姿が掛けられている。弘法大師と同じ高さでお参りができるそうだ。ここでも手を合わせ、無事に四国遍路ができますようにと、お願いをした。
燈籠堂を後にし、御廟橋を渡り振り向き一礼。自然と礼儀正しくしたくなる。そういう雰囲気と空気感が心地良く感じる。
さてと、御朱印をいただく場所を探す。御供所と呼ばれる社務所で頂く。「東寺に行ったのか?」とか、「今から四国周るのか?」と聞かれ、「ぼちぼち周ります」と答える。「今みたいに暑い時期や冬の寒い時期はやめときなさい」と言われる。そんなものか。
高野山 奥の院 のご朱印。
社務所を後にし、静寂な木々に包まれた石畳を歩み、やはり奥之院の入り口である「一の橋」まで歩いてみることにした。杉の巨木が立ち並ぶ。花粉の季節には近づきたくない。
一の橋まで歩きさてどうしよう、と思い、やはり金剛峰寺にもお参りしようと一旦駐車場に戻り、いっぱいであった金剛峰寺前の駐車場へ向かう。学生の集団や、外国人観光客など街中は人であふれている。ちょうど駐車場に空きがあったので車を停めることができた。
山門までの参道で高野山のゆるキャラ「こうやくん」が迎えてくれた。おでこのしわが外界との窓のようだ。
山門の屋根の上には、豊臣家の「五三の桐」と丹生都比売神社の「三頭右巴」の紋が付いている。金剛峯寺には寺紋が2つあるそうだ。今日は左右に掛かっているはずの提灯がない。この山門が正門と呼ばれ、金剛峰寺の中の建物で一番古いそうだ。
正門をくぐり境内に踏み入る。正面に圧倒的な存在感で建つ建物が本坊のようだ。檜の皮を重ねた屋根が特徴的で、はしごが掛かった屋根の上に桶が置かれているのが面白い。天水桶と呼ばれ、火災対策のためのようだ。囲いのされた大玄関と障子戸が閉まった小玄関と二つの玄関があるが、観光客はその横の入り口から入る。右手の鐘楼を見ながら参拝者の入り口に進む。
入り口には奥の院霊木高野杉の輪切りが飾られている。樹高57m、直径2.87m、根元周囲9m・樹齢700年とのこと。とても立派な杉の木だ。
受付で拝観料500円を払い廊下を進む。金箔の襖に鶴と松の絵が描かれた華やかな大広間には、正面の奥に仏壇の小部屋が見える。この小部屋が持仏間と呼ばれ、本尊に弘法大師を奉安し、歴代天皇のお位牌などを奉られているそうだ。部屋の中には踏み入れられないので遠目で手を合わす。
金箔に梅の絵が描かれた襖絵の梅の間、雪の積もった柳の木に鶴が描かれた襖絵の柳の間を見て進む。柳の間は豊臣秀次が自害した、関白秀次自刃の間と呼ばれる部屋。大広間や梅の間の煌びやかな趣とは異なり、少し地味な印象の部屋だが、血生臭い雰囲気は感じられない。豊臣秀次は秀吉の甥っ子で、秀吉の弟秀長と嫡男鶴松が死去したのち、秀吉の後継者として関白職となった。しかし関白継承の後に淀殿が懐妊し捨(秀頼)が産まれると、秀吉は嫡男を後継者としたくなる。突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、高野山へ蟄居させられ、その後切腹となった。その切腹した部屋がここだ。
本坊からその先にある枯山水の中庭と四季の中庭に架かる渡り廊下を進むと別殿と売店。別殿の先の新別殿へおばちゃん達が呼び入れているが別殿の縁側を進む。
別殿の縁側を進むと枯山水の大きな石庭が目に飛び込んできた。蟠龍庭と呼ばれる奥殿のお庭だ。奥殿のほうには行けない。カラフルな紅葉の襖が印象的な別殿をぐるりと一周した。
先ほどスルーしたおばちゃん達が呼んでいる新別館へ入る。赤絨毯の大広間でお茶とお菓子を頂く。お菓子は煎餅のような食感でほのかに甘い味。しばらく休憩し、本坊への渡り廊下へ戻る。
本坊への渡り廊下からは四季の中庭と呼ばれる庭が見られ、高野山の四季折々の風景が眺められるとある。今は草木が青々としている。その先に昔は天皇の応接間として使われた上段の間がある。金ぴかの襖と武者隠しが特徴。上段の間を過ぎると奥書院。昔は皇族方の休憩室で今は儀式に使われている部屋。稚児の間は先ほどの上段の間と武者隠しで繋がっている。天皇に何かあれば不寝番がそこから飛び出す控え室とのこと。
順路に沿って歩むと天井の高い板間の台所に出た。釜戸がいくつも並んでいる。3つ並ぶお釜は二石釜といい、釜1個で7斗のご飯を炊け、3個で一度に二千人分のご飯が作れるとある。野菜が置いてあり今も食事を作っているようだ。ひと通り拝観し外に出た。
今日はこの後も仕事が残っているので戻らなければならないが、精進料理が食べたくて、金剛峰寺の近くの食堂を訪ねた。団体さんが立ち去った後の片付けに大忙しの二階席に案内され精進定食を注文した。山菜の和え物や高野豆腐の煮物、刺身こんにゃく、そして胡麻豆腐。草食系だが食べ応えはある。胡麻豆腐と刺身こんにゃくが美味く、近くの胡麻豆腐専門店とお土産屋さんをハシゴしてお土産に買った。
足早に高野山を駆け抜けたが、お礼参りの際には宿坊に泊まり、じっくりと世界遺産を官能しようと心に誓った。同行二人の精神でいよいよ四国遍路を始動させよう。
あとがき:HDDエラーにより画像がかなり無くなってしまった。残念!そのため違う日に観光で訪問した際の画像を一部使用している。季節感が合わない画像はご容赦下さい。