続 日帰りへんろ 焼山寺アタック その2

今日は前回の終了地点だった藤井寺の最寄り駅JR鴨島駅から出発し、焼山寺に登る山道をヘロヘロになりながら漕いで来た。

焼山寺参道と書かれた看板をくぐり自転車を押して進む。

第十二番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺

縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138〜139年)の勅願所となっている。

この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいたところ阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来している。

ようやく着いた、と思いきや、石段が目の前に出てきた。この追い討ちは辛過ぎる。ひとまず心拍数を下げるため、石段の前にへたり込んだ。お遍路さんの団体や、参拝客が沢山歩いてくる。自分が来た方向とは反対側に駐車場があるようだ。自転車の前でへたれ込んで座っている俺を見て、口々に、自転車で登って来てる、と、物珍しそうに見ていく。なかには、自転車でえらいねぇ、と、褒めてくれるおばあちゃんもいる。息が整い、落ち着いたところで、自転車を担いで30段ほどの石段を登る。ここまで来たら境内まで自転車で行こうと決めた。

仁王の居ない仁王門をくぐると、十二番札所焼山寺。

本堂に進む途中には、太い杉の木が何本も真っ直ぐ天に向かって立ち並んでいる。その下をジャリジャリと玉砂利の音を立て、自転車を押して本堂に進む。途中にも石段があるが脇にスロープがありそちらを進む。

本堂手前の食堂の脇に自転車を止め、まずは本堂と大師堂にお参りする。

納経所は境内左側の建物にあるので向かうと、眺めの良い場所があった。さっき自転車を押して登ってきたへんろ道が、下のほうに見える。

遠くの山並みが見渡せる。まさに天空のお寺である。風は心地よいが、びちょびちょのTシャツが気持ち悪い。ここからさらに30分ほど歩いた標高938mの場所に奥之院があるという。今日はもうしんどいので行かない事にする。トレッキングとしてもう一度、藤井寺からへんろ道を歩いてこようと思う。その時に奥之院にも参拝しよう。なので、今日はやめておく。納経所のある建物に髭モジャの男がうろうろしている。住職っぽくない。山寺だけに山男なのか。

とにかく納経し十二番 摩廬山 正寿院 焼山寺ゲット。

境内はお遍路さんやお参りの人でかなり賑わっている。

これは何の木だろう。色とりどりの花が咲いている。

食堂のダシのいい匂いに誘われて田舎うどんを食う。200円と激安。食堂のおばちゃんに何で来たか聞かれ、自転車でと答える。下りは十分にブレーキ掛けて気を付けてねと言われる。下りが楽しみで登ってきたようなものなのに、と思いながら、ありがとう気をつけるわと答える。

結構長居をしてしまった。今日は十七番井戸寺まで行き、鴨島駅まで戻らなければならない。玉砂利の境内を自転車を押し歩き、仁王門をくぐり、石段を担いで降りる。すれ違うお遍路さんに、がんばってと応援される。声を掛けられるのが心地良くなっている。ここからは、下りのご褒美が待っているのだ。下りは極力へんろ道を行こうと思う。

さっそく参道を下り、急勾配の草の道を下りて行く。へんろ道は杉林の中に続いている。小石の混じる下り坂を下っていく。一旦、舗装路に出るが、すぐ森の中へ続くへんろ道を行く。かなりのガタガタ道で小石や石ころが転がっているし、所々、木の根が張っているが、周りは崖ではないのでガンガン下っていく。また舗装路を横切り、ガンガン下っていく。自転車に、かなりな衝撃が伝わってくるが、気分が高まっているので、ブレーキもそこそこにスピード感を楽しむ。左から舗装路が現われ、勢いよく合流する。車の運転手がびっくりした様に振り向き、走り去っていく。うどん屋のおばちゃんの言葉が脳裏をよぎった。でも、めちゃめちゃ楽しいのだ。

あっという間に杖杉庵に到着。登りはあんなに時間と労力を要したのに、下りは5分と掛かっていない。へんろ道を下るのがこんなに楽しいとは思わなかった。来る時はしんどすぎて周りが見えてなかったが、実はとても見晴らしが良い。

そして梅干が無人販売されている。これも来る時には気付いていなかった。買おうかと思ったが、うどん代で小銭が無くなっている。お釣りも両替もなさそう。

杖杉庵からもへんろ道があるので入って行く。左側が斜面なので、やや慎重に下る。木々が張り出し、枝葉が顔に当たる。畑の中を過ぎ、果樹園の中を進み下りる。ここからは結構大き目の石が転がり、岩肌が剥き出している。スピードを落とし下る。オフロードダウンヒル楽しすぎる。こいつはヤミツキになりそうだ。木々の間から舗装路が見え、最初のヘアピンカーブの所に出てきた。ここからは舗装路を下って行く。

鍋岩の集落を過ぎ、玉ヶ峠へ続くへんろ道の入り口の前まできた。幅50cmほどの小橋が掛かり、上りの土道が続いている。地図を見てしばらく悩むが、玉ヶ峠まで高度を200mほど上げなくてはならない。オフロードの楽しさのため登ったろうか、という自分と、しんどいので舗装路を下ろう、という自分との心の中でせめぎ合う。すぐに心は折れ舗装路を下る事にした。軟弱な男なのだ。

下りのスラロームを快適に下る。舗装路にしてよかったよかった。鮎喰川の橋を渡り、「ショップかたやま」から国道438号線に出る。コンビニのサンクスを過ぎ、来たルートと同じ道を戻るのもどうかと思い、国道を直進してみる。「道の駅温泉の里 神山」という看板があり600mほど先に温泉施設があるようだ。心くすぐられるネーミングだが、時間が無いので温泉はあきらめ、来たルートと同じ県道20号線で鮎喰川沿いの道を行く。緩やかな下り坂で所々上りもあるが、快適に次の札所を目指す。

途中の公衆トイレで用を足すが、ウォシュレットが荒れ果てており残念。

行者野橋を渡り、対岸の県道21号線を行く。こちらは2車線の道路で、そこそこ交通量がある。徳島市に入ったようで、心なしか民家が増えてきているように感じる。

左手に見える鮎喰川の川幅がかなり広がってきたな、と思いながら走っていると、道路沿いに十三番大日寺が現われた。

第十三番札所 大栗山 花蔵院 大日寺

開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。

戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著「四國邊路道指南」(貞享四年 1687年)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。

大日寺は本堂が道路脇すぐに建っている。山門も道路のすぐ脇にある。交通量の多い道沿いなので、違和感を覚える。道端に自転車を置く。

道を挟んだ反対側には阿波一ノ宮神社がある。

実のところは、明治くらいまで阿波一ノ宮神社が十三番札所だったようだ。まずは一ノ宮神社をお参りする。

道を横切り大日寺へと進み入る。大日寺境内は左に本堂、右に大師堂、正面に観音像がある。観音像は合掌した手の形の祠に祀られている。願いが叶う、しあわせ観音というらしいので、お参りする。お遍路さんの団体のおばちゃん達に、さっき焼山寺にいたでしょう、早かったね。などと話し掛けられる。こちらは、白装束の団体さんの区別がつかないので、まったく顔は覚えていないが、向こうは分かっている様だ。行動には気を付けねばなと、鼻くそほじりながら思うのであった。

納経して十三番大日寺ゲット。

ここで、そういえば四番札所も大日寺であった事に気付く。さらにこの先、二十八番も大日寺という同じ名前のお寺がある。他にも重複した名前のお寺があるようだ。

大日寺を出発し、かどや旅館の角を曲がる。田んぼの中の道を進み、分かれ道の真ん中にいらっしゃるお地蔵様を横目に左へと進む。すると鮎喰川沿いに出た。河原が草原と化している。

一の宮橋で鮎喰川を渡る。

一の宮橋から住宅地を抜け、上り坂を進む。この付近は里山の雰囲気を残す旧道らしい道だ。クネクネとした道は急に山の様相となる。池の端を通り、雰囲気のよい良い遍路道を進む。

第十四番札所 盛寿山 延命院 常楽寺

縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。

大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなっているが、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818年)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。

常楽寺の道標に従い池のほとりを進むと、石段が現れた。十四番常楽寺に到着。池の横の石段の下に自転車を置き、石段を登ることにした。むき出しの岩山を削り据え付けた石段は途中で左に90度向きを変える。このお寺は岩の上に建っているようだ。

50段ほどの石段を登る。

境内の途中から地面はごつごつとした岩となっている。鐘付堂は岩の上に建ってあり、岩肌は水が流れているかの様な模様となっている。立て看板に流水岩の庭と書かれている。ひねりの無いそのままのネーミングにやや驚く。

本堂と大師堂は流水岩の奥にある。歩きにくいが、ワクワクするような趣が非常に良い。四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏だそう。

お参りし納経。盛寿山 延命院 常楽寺ゲット。

境内を後に振り返ると、荒波の上に本堂があるかのような錯覚を見た。流水岩という名前は良くできた名前だなと考えを改める。石段を歩き降り、次を目指す。