JR鳴門駅を出発しいよいよ四国遍路を始動した。今日は藤井寺を最終目的地としている。思っていた事がついに実現できている喜びが込み上げてきて、ひとりでハイテンションな気分になっている。と、感じている自分と、どうせ長続きしないだろう、という自分がいるがなんだか楽しい。
第十番 切幡寺をゲットし今日の最終目的地の第十一番 藤井寺は吉野川を渡った反対側の山裾にある。田んぼと民家が点在する遍路道を南の方角に進む。旧撫養街道とは、ここでさようなら。
現在の撫養街道との交差点手前で、公衆電話のような観光案内が置いてあるボックスを発見する。中にはこの付近の観光案内や八十八箇寺、遍路道などが書かれている案内地図が置かれていた。
ボックスにあった小さく折りたたまれた地図。ここから先はこの地図が大活躍することとなった。
阿波八幡の街並みを抜け、さらに南へ進むと吉野川の堤防が見えてきた。堤防を越えて橋を渡りたいが、堤防を越えるには上り坂を遠回りしなければならない。自転車を担ぎ、目の前の堤防の階段を行く。20数段ほどだったが堪えてきた。しかも堤防の向こう側の階段も下りなければならない。さっきの余計な石段登りが効いてきたのか体力の無さを実感し、今後の事を考え鍛えなおそうと心に決めた。
堤防の上からは吉野川と今から渡る一本橋(大野島橋)が見渡せる。階段を下り、一本橋へ向かう。一本橋の先は吉野川の中洲で善入寺島といい、東西6km、南北1.2kmもある日本最大の川中島だそう。
Googlemap
一本橋(大野島橋)は道幅が狭く、車一台分の幅しかない。しかも橋の欄干は極めて低く10cmくらいしかない。欄干ではなく段である。車が来たらすれ違いが怖そうだ。まあ、この辺りは水が無く橋から落ちても草原だ。橋の高さも極めて低い。川が増水した場合、水に沈むように造ってある。だから欄干が低いのか。いわゆる沈下橋というやつか。いやいやこの橋は潜水橋と呼ぶらしい。潜水橋の中央付近にはすれ違いができるスペースがある。そこでしばらく待ち、車を先に行かせた。なぜならこの先から川に水が流れているからだ。落ちたらシャレにならない。
橋を渡り終え、竹林の間を抜けると一面畑が広がっている。ここは吉野川の中洲のようで、広大な田畑となっている。はるか彼方まで畑が広がっている。
人家は一切見当たらない。
昔はこの中州から先に進むには渡し舟に乗っていたそうだ。粟島渡しの舟乗り場だったと思われる場所には小さな鳥居があるが、壁のように樹立する竹林が行く手を塞ぎ川を見ることはできなかった。この中州の周囲はうっそうとした竹林で囲まれている。竹林沿いを進み、川島橋の架かる場所まで走る。
竹林の壁が続いていたが、ぽっかりと開いた先に川島橋が見えた。
川島橋も道幅が狭く車1台しか通れないので橋の中央付近にすれ違える場所がある。車が来ないように願うが叶わなかった。端に寄り車をやり過ごす。
さっきの橋(大野橋)よりも長く、しかも川の水が多く流れも早く感じる。水面が広がり風が気持ちいい。
川島橋を渡り切り、渡し舟の着く場所を見たくて土手の河原沿いを進む。この辺かと思う場所の付近に土手に上がる階段があり、自転車を担ぎ登ると渡し舟の跡と書かれた立て看板があった。下を見下ろすが渡し舟の痕跡はまったく無い。反対の土手下には階段が続いているので自転車を担ぎ階段を下り、県道122号を少し南下、脇道を左に曲がる。
JR徳島線が土手を走るガード下をくぐり、手に入れたマップを見ながらくねくねとした路地を行く。国道192号線を横断し、旧伊予街道に出る。旧街道らしい町並みの通りを走る。周囲は田んぼの割合が増えてきた。途中で手に入れた案内書のマップには遍路道である脇道が記されていて、地図に従い角を曲がる。
旧街道を逸れて旧家が残る集落を進むと、道は徐々に上り坂となり周囲に木々が溢れてきて、民家はどんどん少なくなってきた。
やがて農家の庭先と思われる場所に着いた。地図を見ながら悩んでいると、家主と思しきおじさんが現れ、お寺はそこから行けるよと、林の中を指差し教えてくれた。毎日のようにお遍路さんが通り過ぎて行くので慣れたものなのだろう。
林を抜け、段々畑の横の急坂を走り下りる。
縁側でスイカを食べたくなるような生活観溢れる農家の庭先を通り抜けると、藤井寺の山門前に出た。
第十一番札所 金剛山 一乗院 藤井寺
三方を山に囲まれ渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師がこの地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて17日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から金剛山藤井寺と称されるようになった。
寺は真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。だが天正年間(1573〜92年)の兵火により全山を焼失し江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832年)に再び火災に遭い本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は万延元年(1860年)に再建されたもの。
十一番札所藤井寺。小じんまりとした古めかしい仁王門をくぐり境内へと入っていく。
藤井寺というだけあって藤棚があり藤の花が有名らしい。今の季節では枯れ木でしかない。
石段を数段上がると小じんまりとした境内。右に大師堂、正面が本堂である。
お参りし、今日の無事を告げる。納経所のややゴツめの住職に、この先、焼山寺までの遍路道を自転車で行けるか聞いてみる。絶対に無理だと言われるが、自転車を担いでも無理かと聞くと、やめておいたほうが良いとの答え。
ゴツめの住職に納経をお願いし、十一番札所 金剛山 一乗院 藤井寺ゲット。
本堂の左側に次の札所である焼山寺への遍路道が続いている。遍路ころがしと呼ばれる山道で、四国遍路で最大級の難所だそうな。急坂や岩場なども通らなければならないようだ。およそ13kmの山道を、元気な人で5時間くらい、ゆっくり歩いて8時間かかるとの事。自転車ではどうだろう。押して担いで行けば8時間くらいで行けるだろうか。そんな事を考えながら、少し歩いてみる事にする。
本堂脇から進み、山道に入る。道幅は1mくらいある。山林に囲まれ、祠が点在していて神秘的な雰囲気がある。足元は踏み固められた砂利道や、階段状に造られた道だ。今のところそんなに急坂ではなく、自転車を押して行けそうな気もするが、今日は日帰りお遍路なので帰らなければならない。なのでやめておく。へんろ道を500mほど踏み入れたが途中でUターンし本堂に戻る。再び境内を通り、山門をくぐる。
山門からの下り坂を走り下り、山沿いの道から新興住宅街にでた。区画整理された町並みは久しぶりに見たような感覚だ。ここから先は、JR鴨島の駅まで一本道である。駅前の商店街を通り、駅前に出た。ここから汽車で鳴門まで戻る予定だ。駅の横手で自転車を輪行バックに詰め込み、汽車を待つ。タイミングが良かったため、待ち時間はそれほどでもなかった。徳島行きの徳島線の汽車に乗り込む。徳島駅の1つ手前の佐古駅で乗り換えだ。佐古駅は高架の近代的な駅だ。ここでもほとんど待つことなく鳴門行きの汽車にスムーズに乗り継げた。汽車が到着するがドアは自動で開かない。手で開けなければならないが、結構ドアは重い。リュックを背負い、自転車を担いでいるので、スムーズな行動ができない。列車の乗客は高校生が中心でかなりの込み具合だ。自転車があるので遠慮気味に立って行くことにする。高徳線からホームがV字の池谷駅を経由し鳴門線に入る。鴨島駅から鳴門駅までは乗り換えも含めて1時間ちょっとで着く事ができた。乗り継ぎのタイミングが悪いと、2時間近く掛かる事もあるようだ。駅のホームから駐車場まで自転車を担ぐが、輪行バックのベルトが肩に食い込み、足腰の疲れと合わせて投げ捨てたくなる。焼山寺への参道、遍路ころがしを走り抜くには、足腰を鍛え軽い自転車をゲットしなければな、などと考えながら車に積み込んだ。汗臭い服を着替え、帰途に着くため駐車場を出発したが、結局駐車場はタダであった。次回はJR鴨島駅から再開だ。