掛川から日坂宿、金谷宿 その1

昨日は、浜名湖に浮かぶJR弁天島駅からスタートし、舞阪宿、浜松宿、見附宿、袋井宿、掛川宿と進んできた。どうしても浜松餃子が食いたくて、一旦浜松まで電車で戻った。そのまま浜松のネットカフェで一夜を明かす。

昨夜は浜松駅前ネットカフェ快活CLUBナイト8時間パックで快適快眠。チェックアウトし、朝めしは浜松駅内の吉野家で牛小鉢納豆定食をシバく。浜松から掛川まで、始発1本後の電車で移動。

掛川駅へ無事帰還。午前6時50分、東へと走行開始。

早朝の掛川城。

早朝店じまいされた、掛川本陣通りという屋台村。昨夜はここで晩飯にしてもよかったかな。

道が鉤の手にいくつも折れ曲がる新町七曲。ここ新町は山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和元年(1620)に町として認められた。

朝は散歩のご老人によく合う。

茶畑が朝日に照らされる。今日もいい天気。

日坂宿

上段:今昔マップon the web 明治22年測図 明治24年発行地形図  下段:Google Map 2017

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、日坂宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒、家数168軒と、東海道で3番目に小さな宿場だった。江戸日本橋まで、あと54里26町45間。

事任本宮を過ぎると日坂宿に入る。山あいのため、まだ太陽があたらない。

古民家が旧街道の趣きを醸し出す。ここ日坂宿の玄関先には、屋号のデカイ看板がかかっている。天保11年(1840年)当時の屋号らしい。

高札場。正徳元年(1711)に設けられた。

川坂屋。日坂宿の一番西にあった旅籠屋で、精巧な木組みと細かな格子が特徴の建物。早すぎて開いていない。

床の間付きの上段の間があり、当時禁制だった檜材が用いられている。真後ろを通るバイパスが残念だ。

萬屋。庶民が利用した旅籠。

藤文。

かえでや。

脇本陣 黒田屋。幕末期に日坂宿最後の脇本陣を努めた。

池田屋。

問屋場跡。宿役人は問屋1人、年寄4人、請払2人、帳附5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人。

日坂宿 本陣扇屋。

日坂宿を過ぎると、500mほどの距離で85mの標高を稼ぐ坂道が出現。平均斜度17%、最大斜度40%を越える地点もある。

日坂バイパスの高架下をくぐる坂道が旧東海道。

茶畑横の急坂を登っていく。やはり写真では急坂具合が写らない。

ということで、横からの一枚。という名目の休憩。

喘ぎながらも、なんとか漕ぎあがる。正面は日乃坂神社。

この斜度はヤバ過ぎる。が、上から濃作業に出かける軽トラが普通に降りてくる。

立ち漕ぎの限界。前輪が浮いてまともに走れない。

インコースはこんな激坂。さすがに押して歩く。ちょっとインチキ気味の写真ではある。。。

スラロームは終わっても、登り坂は続く。心臓バクバク、息はゼーゼー、一気に汗だく、フリースを脱いだ。

急坂がひと段落し緩やかな登り坂が続く。

遠くの山肌に「茶」の文字が浮かんでいる。

茶畑と坂道は続く。

なにやら石碑が見えてきた。

芭蕉の句。馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

涼み松広場。かつてこの地に大きな松があり、旅人の休息する木陰となっていた。

茶畑と坂道は続く。

茶畑と坂道は続く。

南アルプスってヤツだろうか。

日坂 佐夜ノ中山

歌川広重 東海道五拾三次 日坂 佐夜ノ中山 保永堂版

日坂宿から長く急な登り坂が続き、その途中の道の真ん中にあった大きな石が、遠州七不思議のひとつ夜啼石。その夜啼石を坂の下で旅人たちが恐る恐る取り囲んでいる。東海道の難所のひとつであった佐夜の中山は、転げ落ちそうな急坂として画かれている。彼方に見える青い山は無間山(今は栗ヶ岳)。

日坂宿から坂道を登り続け、佐夜の中山峠の手前の茶畑越しに遠望する山並み。左端しが粟ヶ岳。現在、街道に夜泣き石は転がっていない。

電波塔が建つ、佐夜の中山公園に登ってみると・・・

おおぉ~ 富士山!心が震えた。

東海道五拾三次自転車旅で初めて富士山を見た。関西人には普段お目にかかれない憧れの山。佐夜の中山公園は桜の木が沢山植わっている。春には満開の桜越しに富士が映えるんだろうなぁ。

扇屋という茶屋。

子育て飴なるものを売っているが、残念ながらまだ開いてない。

久延寺。

広重の画では街道に転がっていた夜泣き石。どうやら、この石ではないようだ。現在、夜泣き石は2つ存在していて、もうひとつは国道1号小夜の中山トンネルの手前にある元祖 小泉屋の店裏にある。東京で見せ物にするため運んでいる途中で失敗し、放置していたものを地元の人々が運んだらしい。