東海道五十七次(京街道・大坂街道)その1

京都三条大橋から歌川広重の東海道五拾三次実写版を撮りながら東京日本橋を目指している道中、東海道は五十三次ではなく五十七次だった事を知る。

豊臣秀吉が文禄三年(1594年)に伏見城築城に着手した際、淀川の左岸に堤を築かせた。秀吉の命を受け毛利一族が築いた堤の名は「文禄堤」。その文禄堤が起源となり、京と大坂を結ぶ街道を京街道・大坂街道と呼ぶようになった。大坂から向かう際は京街道と呼び、京から向かう際は大坂街道と呼ぶ。

慶長六年(1601年)徳川家康は江戸から京までの宿駅・伝馬制度を制定し東海道を整備した。三代将軍徳川家光のころ最終的に53の宿場となり東海道五拾三次と呼ばれるようになった。その後、大坂城が崩落すると徳川幕府は東海道を大坂まで延長する。江戸から来た街道は大津宿と京三条大橋の途中にある髭の茶屋追分から分かれ、伏見、淀、枚方、守口の4宿駅をとおり大坂高麗橋までの東海道五拾七次が出来上がった。これは参勤交代の西国大名が京の朝廷と接触するのを防ぐ目的から、京の洛中を迂回させたいため伏見を経由するルートとしたようだ。

歌川広重の東海道五拾三次や十返舎一九の東海道中膝栗毛などの影響で、今も一般的に東海道といえば江戸と京を結ぶ五拾三次と広まっているが、実際は江戸日本橋と大阪高麗橋を結ぶ東海道五拾七次が正式なのだそう。

まずは出発地点の大阪高麗橋を目指すが、時間節約のため電車で輪行する。阪急宝塚線で梅田まで、と思ったが、梅田駅は大都会の巨大ターミナル。自転車を担いでうろうろするのはチト恥ずかしい。梅田駅のひと駅手前の中津駅で降りることにした。

阪急中津駅。京都線、宝塚線、京都線が集まるこの区間は複複複線。そのためか、とてもとてもホームが狭い。上下線同時にすれ違うと迫力があるが若干恐怖を感じる。

阪急の中津駅側から梅田貨物ターミナル跡地を望む。ついに大阪最後の一等地といわれる巨大空間の工事が始まった。新大阪駅方面から大阪環状線への連絡線は地下化されグランフロント前に駅が新設される。

梅田スカイビル。このあと中津から梅田、淀屋橋、北浜とぷらぷらしながら進んで行く。

西梅田に建つホテルモントレ大阪。巨神兵にしか見えない。

巨神兵とはこういうやつ。

JR大阪駅。乗降客数ランキングは世界第4位。

大阪マルビル。昔、てっぺんのグルグル回る電光掲示板で愛の告白をしたヤツがいたなぁ。そんな電光掲示板は今はもう無い。

梅田新道交差点。通称ウメしん。東京日本橋から続いてきた国道1号線の終端。ここから西へ国道2号線が九州まで続く。

朝の北新地。おねえさん方はすでにご帰宅。

水の街、大阪。右の建物は橋下さんががんばった大阪市役所。ところで今の市長はだれだっけ。

淀屋橋。御堂筋は南向き一方通行。8車線もある大阪のメインストリート。

中之島公会堂。国の重要文化財。

水の街、大阪。

北浜にある大阪取引所。大阪の商業の基盤をつくった五代友厚さんの銅像が建っている。

堺筋、高麗橋1丁目交差点。三井住友銀行がどっしりと建っている。

高麗橋1丁目交差点。今は無き大阪三越のあった場所には、The kitahama PLAZA がそびえている。

大坂 高麗橋

明治44年の地図  時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

高麗橋1丁目交差点から東に進むと高麗橋の西詰め。人通りも車もそれほどない裏通りの道すがらにある。ここが東海道五十七次の西の起点 高麗橋。

高麗橋 浪花勝景 景松

高麗橋。北西側。江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰めに幕府のお触書を掲示する制札場があった。

高麗橋の南西側。橋の西詰めにあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぐ姿となっている。

南側から覗いて見る。明治三年(1870年)九月に大阪最初の鉄橋に架け替えられ、昭和四年(1929年)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋に変わった。

北側から覗いて見る。二連アーチのようだが半分ほどは阪神高速の出口ランプで無くなっている。高麗橋の架かる東横堀川は大阪城築城のとき外堀として改修された。

橋の欄干にはギボシ。慶長九年(1604年)の銘のある高麗橋の物と伝わる鉄製ギボシが大阪城天守閣に保存されている。

南西側から。阪神高速の高架で半分ほどフタされている。

東詰め。阪神高速の出入り口のせいで、橋の3分の1が無くなっている。

里程元標跡。明治時代に高麗橋東詰めに里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として行なわれた。

という事で、ひっそりした高麗橋を出発する。正式な東海道をあらためて進む。江戸日本橋までは、139里4町1間(546.3km)

松屋町筋から高麗橋方面を望む。実際の京街道は高麗橋から今橋へ北進し土佐堀通りを進む。スタートしていきなり間違えた。

土佐堀通りから南向きの路地を望むと階段となっている。上町台地の北の端のようだ。

京阪電車天満橋駅。京阪本線は大阪の淀屋橋から京都の出町柳まで京街道と並行して走っている。

谷町筋を渡るとOMMビル。OMMとは、大阪マーチャンダイズ・マートビルの略、知らなかった。

大阪ドーンセンター横にある野面積みの石垣。慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものだそう。大阪ドーンセンター建設の際、地中から発掘された。

京橋口から大阪城天守閣がちらりと見える。京橋口の奥に肥後石がある。肥後石は城内で2番目に大きい石。広さ33畳敷きで推定重量120トン。京橋口の工事を担当したのは備前(岡山)領主の池田忠雄なのだが、清正の豪快なイメージから肥後(熊本)の加藤清正が置いたといわれている。アメリカ軍の空襲で石の上に並んでいた建物が全て焼け落ちたため肥後石には傷みが見られる。

GoogleEarth 

大阪城の本丸の航空写真が保険のチラシに載っていたので拝借する。

西外堀から乾櫓を望む。

北外堀からOBP方面を望む。

大川にかかる京橋。

土佐堀通りから、大川と北外堀そして内堀越しのモータープールから望む天守閣。

片町から京橋駅方面へと進む。

京街道は京阪電車京橋駅を斜めに縦断するように立ち消えている。

街道のルートは京阪電車京橋駅側のコンコースだが、人通りが多すぎるのでJR京橋駅の東側の商店街を行く。

京橋はええとこだっせ♪♪

グランシャトーがおまっせ♪♪

京橋は風俗も充実。

そして京橋は食べ物屋も充実。

JR大阪環状線のガード下をくぐり、京街道側へと来てみると、かなり太く立派な道標が立っている。下のほうがかなり埋まってはいるが「左 京みち」「右 大和 なら のざき」と記されている。反対側には「右 大坂」「文政九丙戌年九月吉日」と記されている。元々はこの場所ではなく京阪モールの南側に立っていた様だ。

京街道はJR環状線のガード下をくぐり、国道1号線を横断する。この先、京街道は新京橋商店街Begin Kyobashiへと続く。